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0歳から8歳まで中国大陸で育った。敗戦引揚者
不平等だと思ったり、理不尽な扱いを受けたと思い込むと、反抗心が爆発するのは生まれつきのようだ。
4、5才の頃、私の親の前でニコニコしながら「うちに遊びにおいで」と近所の人に言われたので遊びに行くと、何しにきたと言わんばかりの扱いだったので、客間の床の間にかけてあった掛け軸に思いっきり小便をかけて帰ってきた。
元店長
小さいちんちん振り回して思いっきりかけたの覚えているわ・・・
是が非でも養子に欲しい。
生まれつき負けん気の強い性格を気に入って、どうしても養子に欲しいと申し込まれ、何度断っても諦めないので、困り果てたと両親から聞かされたことがある。
その人は、226事件を起こした青年将校の一人で、本来なら処刑されるところ、昭和天皇の第3皇女が花嫁修業をした家の出身であることから、罪一等を減じられ、日本国籍を剥奪されて支那大陸に追放された人物だったという。追放は形式で軍の特務機関に所属していたらしい。特務機関とは特殊任務、スパイ工作機関である。
その人の自慢話に「僕の実家は住所が書かれてなくとも、名前だけで郵便物が届く」と言っていたそうだ。相当な名家なのだろう。昭和20年の終戦前の話である。
「この子はいい教育を受けさせれば、立派な軍人になる」と言い養子にしたいと両親に懇願して両親を困らせていたと言う。
日本国籍がない人間が、敗戦後日本に帰れたのだろうか?
勉強には負けず嫌いではなかった
不思議なことに、負けず嫌いの気性が勉強への競争心へ向かわなかったことである。もし向かっていたら、秀才の名を欲しいままにしただろうにと悔やまれる。遅すぎるけど・・・
できる子には、全く競争心がわかなかったな~
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