幼少期
北京に移住
昭和12年12月09日、静岡県のとある町の鉄道員官舎で次男坊として産声を上げた。本籍地は代々静岡県浜松市。
1歳の誕生日を迎える前に、満鉄(満州鉄道)勤務になった父親に従い一家で支那大陸の北京に移住。
昭和20年の終戦の翌年、小さなリュックサック一つ背負って日本に引き揚げた。小学校2年生の頃である。


3,4歳の頃から支那語ぺらぺら。母親の専属通訳係
引揚げの船中で、「朝鮮にいる日本人はひどい目にあっているそうだ」と大人達の噂話が耳に残っている。
帰国してからは父親の国鉄工事局の仕事の関係で、小学校を5回も転校させられたのが、幼少期のトラウマになった。
職歴
機械メーカーに就職
昭和37年都内の私大を卒業して最初に就職したのが新潟県長岡市に本社工場がある、従業員500人規模の機械メーカーだった。初任給13,800円+手当2,000円





女子社員に、もてもてだったなあ~
3か月の汚れまみれの工場実習を終えて配属されたのが、東京営業部。担当は雪上車。
入社の翌年には南極極点探検用雪上車の開発担当も担った。





南極用雪上車開発営業担当。新入社員にもかかわらず
一人で40日間も北海道出張させられた。南極越冬隊の隊員さん達とも数日間共に過ごした。
建設業に転職
「うちに来て手伝え」機械メーカーに就職してそろそろ3年になる頃、建設会社を興こして間もない叔父に言われて転職したのが苦労の始まり。
500人程の作業員を使って東海道新幹線工事の下請けをやって大赤字を出した直後とのことで1年間給料なし。最初から大波である。事務所と自宅兼用の世田谷の社長宅で1年間を過ごした。
経理責任者として8、9年過ぎた頃、社長が1億7千万円の手形詐欺にあい倒産。社長は一言の伝言もなく夜逃げしてしまったので、私一人で倒産会社の後始末に半年かかった。



寝食を忘れて懸命に働いた10年間
何でも来いの自信と度胸が付いた。
様々な職業を経験
日本橋の石油販売会社、新宿のエンジニアリング会社等、職を転ずる中で邱永漢事務所のS事務室長と知り合い、新宿の100室ある新築ビルと赤坂のビル2棟のビルの管理を委託され、新宿の新築ビルの1室を無償提供された。
ビル管理会社設立。新宿、赤坂のビルに加えて草津温泉のナウリゾートホテルの機械部門の管理を受注。軌道にのせたところで、会社を乗っ取られた。
東京フェンス工業(株)代理店を神奈川県中央部で開業。建売住宅60棟分の外構工事を請け負う。
業者仲間の甘言に乗り、またしても会社乗っ取りに合う。数カ月後に会社取り戻しに成功。
攻めに強く、守りに弱い性格を自覚する。



世間にはとんでもなく悪い奴がいることに気づかされた。
住宅リフォーム・外構工事 展示場開設






土地面積150坪を賃借、室内展示場と屋外展示場を併設。30年近く経営した。